なぜ大学で専攻した分野を学んだのか。
答えはシンプル、と気づいた。
要は、他人にこれが答え、と突きつけられない
分野、解釈やコンテクストや観る人の立場により
どうにでも変容し得るもの、何でもあり、考え
ようによってはどうにでも答えは変容し得る
もの、が許容される世界、ということ。
社会科学や自然科学ではあり得ない。真理を追究する、もしくは真理があるのが大前提、という世界
では受け入れられない世界、だ。
振り返ると、自分らしい選択、であり、逆にいうと
それしかとりえなかった、ということ。
テストで苦手だからな科目は国語。
なぜなら、筆者の意図を読め、と言われても、どうにでも取り得るし、私の取り方と筆者の意図、など合う方が珍しい、くらいに思っていたので、永遠に合わない方が自然、とすら、当時は思っていた。
多様性、多様な考えをリスペクトして、という考え方に巡り合い、ある意味救われた、し、それが当たり前だ、何でひとりひとり同じ人間なんていないのに多様性が前提にならないんだ?、くらいに思っていた。
生きる術、として、社会科学、自然科学、は否定しない。
だが、マインド、とか、考え方の部分では人文科学的な、何でもアリ、という世界観がなければ、自分は生きる術が無い、とすら思う。
だって、他人の考え方と合う、何が正しい、なんてどう考えてもウサン臭すぎて拠り所なんかにできないし、そんな人生、生きる意味ないだろ、と思うから。
Only one、しか意味ないし、全く同じものなんか無いよ。
それを前提にすること自体がおかしい。
regards,
Knz