メロディが溢れ出てくる。

Saturday, April 13, 2024 - Posted by Knz  at 10:26 AM
妻曰く、才能、と言うのだが、、、
メロディが溢れ出てくる、と妻に言うと、それは才能だ、と。妻は大層な音楽の経歴を有するが、そう言う音楽的なバックグラウンドがあっても、全くメロディは浮かばないらしい。
作曲、というのと、高度な音楽を奏でられる、というのはどうやら全く別物らしい。

私は作曲は出来ても、残念ながら高度な音楽は奏でられないし、人前で演奏、とか、やってはいたが、完全に素人の域を永遠に出られないだろう、くらいのクオリティ、だと自分でも思ってしまうほど。演奏力、は作曲のためのスキル、くらいに自分では割り切ってしまっているかも… こう書くとやや悲しいけども…


個人的には音楽の基礎もほぼなく、未だ大いに感覚に頼っているのだが、相当色んな音楽を日々、勉強しながら、とか、電車内、ジムで運動しているとき、など、聴いていると、妙に自分の中で鳥肌が立つくらいキーン、と身体の芯を貫くような、波長が合う、というのか、”とある曲”、それはほんとに色々あるのだけど、そういう曲のある一節がある。

それをずっとリピートして聴いていると、メロディが浮かんでくることがある、というかそれに尽きる。



いきなりピアノとかに向き合っても私の場合は何も浮かばないのだが、そういう、自分の感覚に同期する、というか、非常に何かがピタリと共鳴し合うような曲をただひたすら繰り返し聴いているだけで、メロディは溢れ出てくる、というのが、自分に起きていることを文字にすると近い表現、な気がする。



何とも言語化が難しいし、同じことを他の人がやって、と言ってもできるような話ではなく、多分、私に特有のもの、そういう再現性が他の人に多分同じくは存在しないだろう、それを才能、というなら、少しだけそれはあるのかもしれない。


まあ、その才能、というのが、どれだけイケてるものなのか、影響力を持てるのか、というのはまた別次元の話、で、もしかするとあまり無い、のかもしれないが、、、個人的には誰かに自慢したいとか、そういうものでなく、そういう自分にか無いもの、だろうものは結構密かに大切、で、これがあり、音楽をずっと聴いていられ、作ることができるなら、究極的にはそれを生きている間中、ずっとやり続けたい、と思うし、自分はそういう人生が幸せな人生だろうな、生きる意味、みたいなものだな、と思う。



Regards,


Knz

おかしい。

Tuesday, March 5, 2024 - Posted by Knz  at 9:56 PM
かなり身近な人の死に直面。


これまで親戚の死去、とかはある程度普通にいられたが、今回は何かが違う。


その事実を聞いてから、何かがおかしい。


人の生の儚さ、みたいなものがここまで肌身に感じるのは初めて、だと思う。



親戚より血の繋がりもない身近な人の死、の方がここまでのインパクトがあるとはつゆ程も思っていなかったが事実そうである。



こんなに人の生とはあっけなく終わってしまうのか。



ほんとに自分は今、その日が来てもほんとに悔いなくいれるのか?



1番思うことはこの問いへの自分の答。



答えは簡単、んなこと無理に決まってんだろ。

どんだけやりたいこと残ってると思ってんだよ、と、いう話。



多分、いくつになっても、いつでも変わらない。




だから、もう、follow my heart、で何事も毎日、毎時間を大切に、follow my heart にならんことはやらんでよ、地位とか名誉とかじゃないよ、follow my heart、で自分に嘘なく過ごせてるかどうか、だよ。


と。



Regards,


Knz

クリエイティブ、とデジタル。

Wednesday, February 21, 2024 - Posted by Knz  at 9:02 PM
色んなメディアを出す側、買う側、双方体験すると思うのが、恐らく、総和としてはデジタルのほうがパイがでかくなる気はするんだけども、一単位、1人の人間が体感するデジタルの単価、というのはかなり下がるのではないか。


コンテンツプロバイダ側からすると、より多くの大衆にリーチできれば問題ないのだが、同じ程度の消費サイドにしかリーチできない、とした場合、かなり悲惨なことになる気はする。


オンライン、だと地理的制約は無くなるので、winner takes all、他はloser、もしくは割を食う、という構造になる。


Taylor swiftに対する、世間の熱狂、というのも現代ならでは、ではないだろうか。
オンライン、は果てしなくボーダーレス、でタイムラグが殆ど無い。
使われる言語が英語、で、グローバルなプラットフォームを通じて、だと尚更、である。

要は弱肉強食、は果てしなくエスカレートする世の中になっている。

あまりどこに住んでる、何人、どういう出身、属性、とか、関係がない。



あるのは、やるか、やらないか、過去よりも未来。



よく言われる綺麗事、のような話が地でいく時代、なのではないか。



それがまかり通らない現実が目の前にあるなら、それは時代錯誤、arbitrageのように、時期に差分はゼロになるだろうが、差分があまりにデカいなら、それはプラス、マイナスのベクトルにもよるが、need to take actions、動くべき。




人生の判断軸、とはひとえにシンプルにそう考えればいいのではないか。





Regards,


Knz

自分。

Tuesday, February 13, 2024 - Posted by Knz  at 11:53 PM
なぜ、自分は大学で学んだのか。


なぜ大学で専攻した分野を学んだのか。



答えはシンプル、と気づいた。




要は、他人にこれが答え、と突きつけられない
分野、解釈やコンテクストや観る人の立場により
どうにでも変容し得るもの、何でもあり、考え
ようによってはどうにでも答えは変容し得る
もの、が許容される世界、ということ。



社会科学や自然科学ではあり得ない。真理を追究する、もしくは真理があるのが大前提、という世界
では受け入れられない世界、だ。



振り返ると、自分らしい選択、であり、逆にいうと
それしかとりえなかった、ということ。



テストで苦手だからな科目は国語。


なぜなら、筆者の意図を読め、と言われても、どうにでも取り得るし、私の取り方と筆者の意図、など合う方が珍しい、くらいに思っていたので、永遠に合わない方が自然、とすら、当時は思っていた。




多様性、多様な考えをリスペクトして、という考え方に巡り合い、ある意味救われた、し、それが当たり前だ、何でひとりひとり同じ人間なんていないのに多様性が前提にならないんだ?、くらいに思っていた。




生きる術、として、社会科学、自然科学、は否定しない。


だが、マインド、とか、考え方の部分では人文科学的な、何でもアリ、という世界観がなければ、自分は生きる術が無い、とすら思う。



だって、他人の考え方と合う、何が正しい、なんてどう考えてもウサン臭すぎて拠り所なんかにできないし、そんな人生、生きる意味ないだろ、と思うから。



Only one、しか意味ないし、全く同じものなんか無いよ。


それを前提にすること自体がおかしい。


regards,



Knz