やっと一息。試験の日も溜まった仕事を週末に
片付け、GWで病にやられてふくちかして以来、
ほっと一息つけずにきたが、小休止。
デザイン思考、なる言葉が流行り、その本をパラパラ読んでいて気づくのは、そもそもアーティスト、的なものを指向していた思春期を経ているので、ああ、そういえばもっとふわふわした、言葉では表現できないものばかりやっていたんだよな、と。いつしかカチカチ、ロジックだ、言葉や数字、紙に落としてなんぼ、も左脳最前線のことばかりやってきて、あれ、と思うところはなくはない。
べつに嫌いじゃないから左脳最前線のことをしているのだが、仕事はそうでも、自分の本質的な、コアな部分はもっとふわふわしたものが好きなんだろうな、まだ、変わらず、とデザイン思考の本を読んでてふと思う。
こうかくと寂しいオッサン、みたいな気もしなくはないが、何となく、寂しい、というのとは何かが違う。
たしかにやっちまってるなあ、おれ、みたいな感覚はゼロではないが、プライベートだけは柔らかく、自由なものを完全に謳歌したい、というか、カチカチしたのを日々やってるがゆえの欲求、みたいなものがある気がする。
忙しい日々では体験できない、味わえない上質なもの、プライベートな時間がゆえに味わえるもの、みたいな、決して経済的な等価値を求めるものじゃない、ある意味、汚れのない、純粋無垢なものがそこにはあるんじゃないか、と。
たいそうなことでまとめる気はなく、不可侵の、完全なるサンクチュアリ、的なものが、週末を迎える金曜日の夜には何となくある気がする。
嫌いなわけではないが、家族と賑やかすごす時間とはまた違う、静かな、でも大事なひととき、というのが、この夜、静まり切った時間の中にある気がする。
端的に言うと、ひとりになって想いを巡らす、何ら義務的なものはなく、真に自分に向き合い、自分だけのために過ごせる時間の大切さ、みたいなものがある気がする。
こう、色々書き連ねる中で整理しているくらいなので、この不思議な気持ちは何なのか、と自分でもよく分からないのだが、最後のまとめに書いた一節が一番しっくりきた。
自分だけのために過ごせる時間の大切さ。
これがものすごくpricelessな価値をいまは感じる。
regards,
Knz