経済的な幸福の飽和点。

Saturday, June 5, 2021 - Posted by Knz  at 10:02 PM
まだ書くのは早い気がするが、家とか車とか、でかい買い物を除けば大半のことは望む通りにできると経済的にある程度満たされており、物では満たされなくなる。

関心事が違う物に移る、という方が感覚的に正しいか。

数十万の物を買って得られる幸せ度より、子供や妻と楽しい話ができてる方が幸せ、という方がより手触り感がある気がする。


子供の手を握って寝かしつけて、グースカ眠りに入る様を見ることの方が、心がグッときてる感じがする、というとよりダイレクトに伝わるだろうか。


私は残念ながら出来た夫でも父でもないと思う。かなり自分のやりたいようにやってしまっているので。ゆえに子供の寝かしつけの反応くらいで、世間では考えられないくらい幸福度が増している、逆に言うと、ほとんど触れ合ってなくて、かなり稀にそうした体験をしてるから、より大きく感情に訴求するものがある、ただそれだけだ。キレイな話でも何でもなく、仕事や趣味、勉強など、自分だけの時間に相当な割合を割いており、前時代的な男性像をそのまま地でいってるのだろう、と嘆かわしいが、でもそうでしか生きれていない自分が素の姿見なのだろう、と。


ワーカホリック、というより、多分、走り続けてないと不安、という、ただそれだけなんだと思う。就職氷河期のことや、老後、長寿化、とか考えると、日々、漫然と過ごすのがただ怖くて、フルスロットルで走り続けたられてるか、と自問して、はい、と言える状況を作り続けないと、どこかで踏み外し、家族を困窮させる、更には親など親族に迷惑をかけてしまうのではないか、という畏怖があるのだ、というのが正直なところ。多分、精神科医とかに診てもらうと一種のトラウマですね、とか言われるのではないか、と、あまり誇れる状況ではないのだと、何となく自認している。


でも、どこかでそういう可能性も気にし出すとキリがないし、どうでもいい、とも思っているのも事実。
アドレナリンが出続けてれば犯罪とかに手を染めない、倫理的に問題ない線でいる前提なら、自分がいやな思いをすることを極小化できている、ワクワク出来ている限りは、それでいいかな、ともぼんやり思っている。

新卒で働き始めたころには今のような精神的コンディションは想像もしなかったが、何かの手段で、自分の意思だけで実現できることにはあまりリターンが大きくはなくなる、ということもあるのだな、と。自分ではコントロールできないものを、自分の行動で想定を上回るリターンがあると幸せ、と思う、そういうことなのではないか。





Regards,


Knz