他界された竹内結子さんが主演、なのだが、中々先が読めるような読めないような展開。
仮説が当たってることもあるのだが、冤罪なのにそのまま突き進む、という、死刑の執行と、死への欲求の奇妙なバランス、というか需給の一致。
これはドラマだ、といえばそれまでだが、現実に同様のケースがあったら、法が定める死刑の執行とは何なのか。
ラストのシーンにある、信じた人に捨てられる方が死より恐ろしいこと、という一節。
人生の中で度重なる不運を自らの選択ゆえ、と言い切る自己責任の極致、というか、どう見ても不遇でしかないが、キッパリと自分が選択してきたことだから、と誰を責めるわけでもない。
どれだけ周りが止めても、死へ突き進むその姿は、本人が言う通り、生まれてきてすみません、という言葉に集約されるのか。
なぜこんなに真っ当な人が、他人の責任を被るかたちでいくつもの酷い目に遭って、逆にそうだったからこそ死刑の執行機会にすらすがろうとするまでに諦め、というか、無念なのか、この世に思い残すものは何もない、と極限まで吹っ切れる様は、何でこうなっちゃうんだろうな、あなたじゃないよ、そんな不遇に遭わなきゃいけない人は、と言いたくなる。
親や祖父母といった生まれ持った幼少期の環境が不遇であればあるほど、そこから抜け出すことが困難、ということなのか。不遇の中で誰にすがっても裏切られ、捨てられ、と、ほんとにボロ雑巾のようになるまで打ちひしがれた、ということなのか。
自殺を考えたらここへ相談、という貼り紙なども見るが、見ず知らずの人への相談してなど、気休めにしかならない、それよりも不遇な人がより早くその境遇から脱する手立てを、どれだけ早く差し伸べられるか、という方が重要なのではないか。
なぜ自殺なんて、と後で他人がいくつもコメントしてるような推察ほど胡散臭いものはない。多分いずれも外れてる。本人にしか分からぬ、それまでの蓄積、思いつきでない、どうしようもないものが、ある日、もう抑え切れなくなって爆発するのだ。そういうことなんじゃないか、と思わされるドラマだった。
最近、妻が取り込み中で、何も声をかけずに私が髪切りにいき、ジムに行って帰ってきたら、もしかして、、、みたいなことを言っていたが、私は自分で自ら生を終えるようなことはしないよ、だって少しでも生きたいから、みたいなことを言っていたことが最近あり、それだけに今回のドラマは気になるテーマであった。
全然話違うが、劇中の音楽、窪田ミナさんの音楽が素晴らしい。英国王立アカデミー出身、と半端ない…
非常に繊細なタッチの音だが、クライマックスには極めてドラマティックな演出に色を添えていた印象。
Regards,
Knz