ママは何でお料理つくるの?
まだ幼い娘からのこの二つの問いは脳天突き抜けるかと思うくらいに脳裏に残った。
要は、娘の目に、明らかなる家庭内の分担が見えている、ということである。
私がほとんど仕事と勉強しかしとらん、と見えていて、妻は家事をやる人、と見えている。
嘘偽りなく娘の認識が正しい。
それだけに本当に今の時代に沿った親の在り方を見せられているのか?という疑問を呈されたら、それはNo、だろう。明らかに。
明治、大正、昭和の親の分担とさして変わらん姿が幼い娘の脳裏に焼き付いてるのか、と思うと愕然とする
。
バランス、というが、本当にバランスさせようとすると、経済面での家庭の安定に確信を持てない、ゆえにそれに集中せざるを得ない、というのが本音である。
ある種の畏怖、のようなものがついて離れない、というと大袈裟かもしれないが、でも、妻に自分程の諸徳形成能力も意欲もない、実現方法もない、と認識したら、のこるもう一人の親がすべきことは、ひとえに稼ぐしかない、倒れることなんて許されない、稼げるだけ稼ぎ続けるしかない、と、誰も言わない話だが、事実、それしかない、という現実がある。
メディアは好き勝手に、ふわふわした世論形成をしているが、世帯ごとの真実や事情などガン無視である。
自分の選択肢が正しいかどうか、より、少なくとも私は経済的に困窮する自分の唯一の家族を見たくない、という唯一無二の、非常にシンプルなポリシーを貫いているだけである。
散々カネの話で喧嘩だ親族の亀裂だ、というのを私は見てきた。多分、これがある種のトラウマだろうし、ゆえに会計士を取るようなところまでカネに興味を持ったのだと思う。
どうすれば良かったのか。
あの凄まじいまでの醜さを、どうしたら見なくて済んだのか。
多分、それだけ、なんだと思う。
書いていて非常に悲しいが、でも、自分の人生で何やわ実現したい。ということが本質的にはあるのかもしれないが、何を避けたいか、が根源的に優ってきた、それを極端に恐れ続けてきた、今なお恐れている、ただそれだけ何だと、最近、冷静に見つめなおして思うようになってきた。
多分、いまの生活レベルで十分満足、あとは今まで回避したいものを回避できる状態を担保しつつ、自分が培ってきたものが他の人に良い形で還元出来さえすればいいんだろうな、と。綺麗事のようだが、そんなに何にならないと気が済まない、みたいのは、もうあまり無い。
それより、自分から何かを与えられた、誰かに喜んでもらえた、助かった、と言ってもらえた、という無形の価値のようなものが、気づけば生きる糧になっている気はする。
ここまで正直に書いたのは初めてかもしれない。
これまで抑えてきたものを一気に吐き出したせいか、涙がなぜか止まらない。
自分がいる、生きていることの価値、のようなものが、本当にあるのだろうか、という、根本的な疑問、のようなもの、奥底には、凄まじいまでの自身の価値への自信の無さ、のようなものがあるのかもな、と正直なところ思う。
こんな話はとても人には話せないね。
Regards,
Knz