観た後の感想として、直感的に、守るべきものが分からなくなったときに見失うもの、自分の進むべき、進みたい道分からなくなること、というのがあるよな、と。
自衛官など崇高な世界の仕事でなくとも、自分の人生でも何度かそういうことがあった。
今は不思議とベクトルはあるはあるのだが、見失うと暫くただただ無気力になる。
自分のように、また普通の生活に戻れればまだマシな方で、そのままあらぬ方向に舵を切り、あり得ない方向が正である、と側から見ると暴走、狂ってしまった、というほかない結果になることもあるのだ。
戦争、という極限を経験すると、PTSDと言われるような精神障害を負うこともある、というのはよく言われること。多分、今回の映画の犠牲者もその一例のようなものだろう。
守ろうとしているものが自分の認識と異なる世界に向かおうとした時、信じてきたものの存在が大きいほど、自分の何かが瓦礫のように崩壊してしまう、憎悪や憤怒となりエネルギーの向く先が信じがたい結末をもたらす。
そういうギリギリの何か、というのは世の中に実は潜在的にありふれていて、亀裂のように日々、犯罪や戦争、というかたちに姿を変え、歪みとして現れるのだろう。
何でこうなるんだよ、と、ただただやるせない、というか、声なき声が正とならない、この切なさ、儚さ、灯火のようなものをどうすればいいのか。
歪みのひとつひとつが緩やかに優しく修復され、時間の経過とともに傷が癒えていくように、ゆっくりとでも平穏な姿へと収斂していく。そんな世の中であればどんなによいものか。
元あるパイを取り合うような、殴り合いみたいな世の中でなく、少しでも旨いパイを作り続け、みんなで分け合い、うまいね、と言いながら食べ続けられる、そんな世の中にはならんのかね。
Regards,
Knz