子供の成長、独立して生活、生きていけるようにすること。妻も健康に、ともに長生きして暮らして行けるように。
両親、姉とその家族も健康に安心して暮らしていけるよう。
この辺は誰でも思うことだろうけど、個人的には、なぜにこんなにムキにになるのか、という数点がある。単純化すると1点、になる。
それは、自分はどこまでやれるのか、何かを成し遂げられる人なのか、という確認、である。
自分に転生の天才的な資質、があるのかは不明。それがあろうが無かろうが、どこまで自分はやれるモノなのか、を確かめておきたい。
やり残したことがある、やり切らなかったから、と後で、いよいよこの世を去るのだ、という瞬間に感じながら去るのはどうしても嫌だ、と感じる。
ほんとに自分としては最大限にやり切った、これ以上は無理だった、自分には、という程に、やりたい、こうなりたい、こうしたい、ということをやり続け、その結果、どうなったのか、その先に見える景色、感覚、感情とはどういうものなのか。
まるで山登りをして、素晴らしい景色を見て感動したときに、その感動をまた味わいたい、ということかのようで、こう書いてみるとまさにそうなのかもしれない。
そのための手段として諸々のモノが、時間的に、または経済的に投下すれば得られる、ショートカットできたり、実効性が上げられるものなら、あまり躊躇せず思い切り投下する。
最近、思っていることの根本はそんなところにありそう。
音楽、は若い頃には経済的な理由、でやりたいことが実現出来なかったことがあまりに多かった。
情報もプロの現場レベルの情報と非対称性があまりに多く、また、機材やその使い回し方も手が届かないことが多かったし、歌い手の確保にも頭を悩ませた。
今はこれらの点は経済的に投下できる元手が一定程度あれば、あまり問題にならなくなった、なら、どこまどやれるのか、を見てみたい。
勉強、は若い頃にはやり方もあまりよくわかっておらず、分かってきたかな、と思えるのは20代の中盤。大学はすでに卒業して、果たして自分の実力とは本当はどこまでのものだったのだろう。
勉強のやり方にも課題はない、経済的にも投資は可能。あとはやるかどうかだけ、なので、これまたどこまでやれるのか、を見てみたい。
なんでこんなに執着、拘泥することがあるとすると、そういうことかな。
人生は儚い。
尊敬していた、昔からよく知っていた、有名人、周りの人、のご逝去のニュースや知らせを聞くといつもそう思う。
まだ、5感もあり、身体に不自由もない。
気力も体力もまだまだいける。
いけるうちなら、いくしかない、かな。
Regards,